でん六様:ドーナツタウン
(3月頃の未来予想図)
揺籃歌
後期日程の二次試験が終わった数日後。
俺は部屋で本の整理をしていた。
もうすぐ守との同居生活も終わりを迎える。
彼のご両親はアメリカから帰ってくるし、そうでなくても。
俺は大学進学を機に、守との同居は解消だと思っていた。今日、守はリュートと飯を食うと言って出かけて行った。
もう、10時になるけど。まだ帰って来ない。そうだ。俺はざわざわする心を落ち着けるために、すぐにしなくてもいい部屋の片づけをしている。今夜、守が帰ってこなくても、そういうこともありだと覚悟していた。
机の上で、携帯電話がメールの着信を知らせる。
守かな、と思ったら違った。『これから行っていい?』
ネイトからだった。
珍しい。今までは断りも何もなしに、ズカズカ俺の部屋に上がり込んで来たのに。『かまわない』
俺は一言だけ返信した。
「おじゃましまーす、鈴哉、久しぶりー」
「こないだ飯食ったばっかりだろ」
受験が終わった後、ネイトとリュートが俺たちのために、ちょっと豪華な飯を作ってくれた。
けど、四人で過ごす時間は着実に減っていた。
そしてもう、今までの関係に終わりさえ見えている。ネイトはやってくるなり、ヘラヘラと言い訳した。
「遅くにごめんなー、リュートが守と出かけちゃって、俺寂しくてさあ」彼がこんな態度をとるのは久しぶりだ。
ここんとこネイトは、人前で俺にまとわりついてこなくなった。
もう俺に飽きたのか、リュートに見せつける必要がなくなったのか、よくわからない。
でも、わからないままでいいんだと思って、俺はそっとしておいた。ネイトのテンションが、すぐにがっくりと下がる。
「鈴哉……」
彼は俺の胸に、ぐったりともたれかかってきた。
その背中に、腕を回して支える。「こないだ、リュート20歳になっただろ」
「ああ」
「今日、言われた」
表情を見られたくないように、俺の肩に顔を伏せて、ネイトは続けた。
「これから俺も兄さんみたいに、外泊することがあるかもしれないけど、詮索しないでくれると嬉しいって」
そしてネイトは俺が愛用の枕であるかのように、ぎゅっとしがみついてきた。
俺はその背中を、そっとさすった。
「リュート、成長したな」
「だろ、俺もいい兄貴ぶって、OKしちまった」
ネイトの対応は正解だったんだろうけど、不安になる気持ちもわかる。
彼らのような関係性をもっていたら、兄弟が分離される瀬戸際に、いてもたってもいられなくなるのは仕方がないだろう。今ごろ守はリュートと……
俺も、考えまいとしていた。胸の奥がちくりと痛む。
けれど、かつてのかきむしられるような焦燥はもうない。
ここまで俺が落ち着きを取り戻せたのは、ネイトのおかげだ。
あの頃は、もう二度とこんな気持ちにはなれないと思っていた。「ちょっと待ってろ」
彼の体をそっと離し、俺はキッチンに向かった。マグカップを二つ手にして戻ると、ネイトはベッドの上でうずくまっていた。
枕にしがみついてもいないし、音楽も聴いていない。
これは相当きてるな。
「ほら」
「……ありがとう」
湯気の立つマグカップを差し出すと、ネイトは素直に受け取った。
「うまい。これ何?」
「ホットミルクに蜂蜜入れたやつ。牛乳に含まれるトリプトファンが神経を落ち着かせるぞ。俺も飲む」
ベッドの端に座って、ネイトと一緒に飲んだ。
マグカップが空になるまで、会話はなかったけれど、まあいいかと思った。俺が変わったように、ネイトも少し変わった。
以前の彼ならば、不安なときほど沈黙に耐えられず、ベラベラしゃべりまくっていただろう。
その変化は、悪いものではないと思う。
俺には、なんとなくネイトが今、してほしいことがわかるような気がした。
二つのマグカップを机に置き、俺は眼鏡をはずした。
ベッドの中、ネイトの傍にもぐりこむと、照明を落とす。毛布の中でネイトの頭部を抱き寄せた。
彼は逆らわなかったし、エロい行為もしかけてこなかった。
室内の薄闇に、静寂が流れる。
俺はネイトの背中を、静かに心拍数のリズムで叩いた。何か音があった方が、気がまぎれるだろうか。
俺はかつてこの部屋で、ネイトが聴いていた音楽の一部を思い出した。
小さな声で、その旋律を口ずさむ。
腕の中でネイトが、低く笑う。
「何それ?」
「お前が聴いてた曲だろ。悪かったな、再現性低くて」
「わかるよ、カッチーニの"アヴェ・マリア"だろ」
「ああ。お前が曲名教えてくれたから。ダウンロードして時々聴いてる」
「なんだ、言ってくれたら音源貸したのに」
「珍しく静かな曲聴いてると思って、俺も気に入ったんだ」
何気ない会話だったけど、声のトーンから、ネイトの心が揺らぎが伝わってきた。「なんか、音楽かけようか?」
彼を抱きしめたまま、俺は尋ねた。
「いや、いい……」
ネイトが、体をすり寄せてくる。
「続けて」
「えっ……」
「鈴哉の歌がいい。さっきの、続けて」正直、恥ずかしかった。俺そんなに歌がうまいわけでもないし。
でも、ネイトの頼みに答えて、俺はその曲を小声で歌った。
後半すごい音階が上がるのを忘れていた。ちょっとキーをごまかす。
リュートだったらすげえ美声で決めそうな曲なんだよなあ。ネイトの背中に、手でリズムをとりながら、俺は最後まで歌った。
腕にかかるネイトの重み。胸に感じる体温。
彼は普段と別人のように、力なく、俺に身を預けている。
ネイトは俺と大して体格に差がない。
なのに今夜の彼は、小さな子供のようだ。せっかく最後まで歌ったのに。
いつしかネイトは静かな寝息を立てて、眠りに落ちていた。
俺の肩口に、頬を押しつけたまま。
優しい未来を予想して頂けてすごく嬉しいです。もうこれを最終回にさせていただきたい…!
送っていただいた3作がどれも素敵すぎたので、全部載せさせていただきました。
でん六さんの文章の、物静かで少し寂しげで、うんと優しい雰囲気が大好きです(*´▽`*)
BACK|TOP|NEXT