その夜、兄さんがメシを作っている隙に、俺は秋野の部屋をノックした。
鍵はかかっていなかった。
「リュート……?」
机に向かって勉強していた秋野は、不思議そうに振り返った。
そりゃそうだよな。何の用だって感じだろう。
こいつの部屋を訪ねるのは、俺だって多大な抵抗がある。
でも今日は──
「お前、その顔……」
秋野の左頬には、湿布が貼ってある。
今日、兄さんは髪を切りに行った。俺も同行して毛先を整えてもらった。
兄さんは何も言わないけど。明らかに昨夜なんかあっただろ。
「ああ」
秋野は表情を変えずに、左手で頬を押さえた。
俺は、勇気を振り絞って尋ねた。
「それ、兄さんがやったのか?」
「え?」
秋野はYESともNOとも答えなかった。
でも、昨夜の成り行きやら何やら、消去法から答えはわかる。
俺は二人の間に何があったのか、問いつめるつもりはなかった。
「ごめん……」
彼の傍に歩み寄り、俺は頭を下げた。
「え、何が?」
「兄さん、どうせ笑ってごまかしたんだろ。俺が代わりに謝る。すまん」
「リュート……」
昨日から、兄さんは明らかに様子がおかしかった。
でも、兄さんはそういうときに理由を突っ込まれるのを嫌がるから、俺は見てみぬ振りをしていた。
そして秋野は、俺がこんな風に言ったって跳ねつけたりしない。それも知ってる。
「お互い様だ。俺怒ってないし、リュートが気を遣うことないよ」
秋野はいつもみたいにギャーギャー言い返してはこなかった。
「……に……」
俺は、本当に言いたいことを言おうとするとき、喉が狭くなってうまく声が出なくなることがある。
何回も咳払いしてから、なんとか声を絞り出した。
「兄さんを、嫌わないで……」
すると秋野は、驚いたように椅子から立ち上がった。
そしてうつむく俺の肩に手を置いた。
こいつに、こんな風に触られるのは初めてだ。
パーソナルスペースに入られても、意外と不快感はない。
「嫌ってないよ。心配するな、リュート」
秋野がそう言ってくれるのも、予想通りだった。
でも俺は不安で、確認せずにいられなかった。
兄さんはいつも、俺が幸せになれるように見守っていてくれる。
だけど俺だって、兄さんに幸せになってほしいと思っている。
こいつと兄さんがベタベタしてるのはめちゃくちゃムカつくけど。
うまくいってなくて、兄さんが落ち込んだりするよりマシだと思う。
俺の肩に手を置いたまま、秋野は深いため息をついた。
「リュート、ちょっと頼みがある」
「は?」
「ここに座れ」
秋野の手に押されて、俺はベッドに斜めっぽい感じで座らされた。
何をする気だ。と思った次の瞬間。
秋野は傍らに腰を下ろし、俺の背にもたれかかってきた。
正確に言うと、背中が触れ合うくらいの感じだ。
「何すんだよ」
「5分だけ、こうさせて」
わけわかんねえ。秋野は俺に体を預けたまま、しばらくじっとしていた。
なんだかわからないけど、俺も黙ったまま、背中合わせにこいつの体温を感じていた。
「──俺、お前のこと嫌いじゃないよ」
長い沈黙の後で、いきなり秋野がそんなことを呟いた。
「なんだよ、急に」
驚いて、心臓が口から飛び出しそうになる。
「お前は責任感が強いし、努力家だ。仕事とプライベートを切り離してるとこもいい。俺、社会に出たらリュートみたいな奴と働きたい」
「なっ……」
なんでいきなりお前、そんなことを言うんだよ。
今まで顔を合わせりゃ文句ばっかり言ってたくせに。
どっかのジジイみたいに口うるさい、いつものお前らしくない。
「何って、それだけ」
やがて秋野は立ち上がり、振り向くとひっそりと笑った。
「ありがとう、リュート」
こいつは不器用だから、嘘なんかつけない。それはわかってる。
秋野の笑顔はひどく悲しげで、寂しそうだった。
かーっと顔に血が昇った。クソ、むかつく。
お前も兄さんも、ほんとはまいってるんじゃないかよ。何笑ってんだ。
こういうときにどうしたらいいか、俺にはわからない。
どんな言葉をかけたらいいのか、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
そんな自分にますますムカつく。
顔が熱いのをどうすることもできないまま、俺は秋野の部屋を出た。
☆
「鈴哉と、何かあったんだろ」
自分ちに帰ると、早速兄さんのチェックが入った。
仕方がない。兄さんはなんでもお見通しだ。
夕食の間、いつも以上に無口でぎくしゃくしてた俺らの態度にピンと来たんだろう。
守はいつも通りワイワイ騒いでいるし、兄さんは雰囲気を盛り上げるためにあえて賑やかしていたけど。
「秋野の顔が、気になったから部屋に行った……」
俺は正直に白状した。兄さんに隠し事はできない。
「そしたら、背中によっかからせてくれって」
「へえっ、ズズナリが?」
短くした毛先をいじりながら、兄さんは興味深げな顔をした。
「秋野は、どうしてあんなことをしたんだろう」
「……ああ」
「兄さんには、わかるの?」
「わかるよ」
「何故」
こうしてすぐ正解を教えてもらうのは、よくないことだと思う。
でも今日は、自分でいくら考えても答えが出なかった。
「フツーに、リュートのことをいい奴だと思ったんだろ」
そこで俺は、はっとして兄さんの顔を見上げた。
やはり昨夜、二人の間には関係性を変えるような何かがあったんだ。
「リュートが寄りかからせてくれて、鈴哉は救われたと思うよ」
兄さんの答えはいつも通り、淡々としている。
どうしてそんな、他人事みたいに言うんだよ。
思わず俺は、きつく唇を噛みしめた。
守たちの部屋に行くようになって、守を好きになって。
俺はいろんなことに気づき始めた。
守も、秋野も、兄さんも。
人には見えない孤独を抱えているということ。
けど、誰かがどんなに努力しても埋められない孤独を、別の誰かなら埋められるかもしれないってこと。
「そんな顔するな。それでいいんだ」
兄さんはいつも通りに笑って、ただ、俺のことを肯定してくれた。
「お前のしたことは、それでよかったんだよ。リュート」
胸が苦しい。
俺は窓を開けて、冷たい外の空気を吸い込んだ。
今夜の夜空は晴れ渡っていて、半月と星々がよく見える。
──お前は責任感が強いし、努力家だ。
秋野の言葉が甦る。あいつはなんで柄にもなく俺を褒めたりしたんだ。
俺は兄さんに頼らずに、自分で答えを出そうとした。
一つの可能性として。
秋野は兄さんに何らかのポジティブ・コミュニケーションをしかけて、かわされたんじゃないか、と思った。
ああいうのって、ハズすとめちゃくちゃ落ち込むんだよな。
でも秋野は、もう一度気を取り直そうとした。
それで俺に評価の言葉をかけようとしてくれたんじゃないのか。
あいつが言うからには社交辞令じゃない、本心なんだとわかる。
クソ、胸がずぎずきする。
この痛みはちゃんと受け止めなければいけない種類のものだ。
俺は自分に言い聞かせた。
人は誰かの孤独を知らず知らずのうちに、埋めているかもしれない。
だけど一方では無意識のうちに、人をひどく傷つけているかもしれない。
そこから目をそむけちゃだめだ、と。
──俺もお前のこと、嫌いじゃない、秋野。
本人には言えなかった言葉を、俺は窓の外に光る、半月に向かって呟いた。
END